金ヶ崎トレイル

金ヶ崎トレイル ~歩けば見えてくる!地形に刻まれた歴史~

敦賀市東部にある金ヶ崎トレイルは、史跡金ヶ崎城跡から手筒山、ラムサール条約湿地中池見湿地に続く山の尾根道です。 南北朝・戦国時代の山城の遺構をたどりながら、四季折々に表情の変わる豊かな自然に包まれる、敦賀の魅力たっぷりの金ヶ崎トレイルをどうぞお楽しみください。

トレイルの主な注目点を金崎宮から順にご紹介します。

金崎宮(かねがさきぐう)


明治時代に尊良親王・恒良親王を祀る官幣中社として創立。摂社の、絹掛神社には藤原行房、新田義顕、気比氏治、瓜生保ら南朝方の将士が、朝倉神社には朝倉統治時代の歴代朝倉郡司が祀られています。
桜の名所でも知られ、桜の小枝を交換する「花換まつり」は多くの参拝者で賑わいます。境内には昔の貴重な写真や資料・ジオラマが展示されています。ちなみに「金崎宮」は、金ヶ崎の「ヶ」が無い表記となります。
※尊良・恒良の読み方は(たかなが・たかよし)、(つねなが・つねよし)の2通りの説があります。

金ヶ崎城跡(かねがさきじょうせき)

平安時代末期に平道盛が木曾義仲との戦いのために築いたと伝わりますが、南北朝時代と戦国時代の戦いの舞台として有名です。南北朝の戦いでは新田義貞率いる南朝軍が後醍醐天皇の皇子・尊良親王・恒良親王を奉じて立てこもりました。
また、戦国時代には織田信長が朝倉攻めの際にこの城を攻め落としたものの、浅井長政の裏切りに遭い撤退した「金ヶ崎の退き口」の舞台ともなりました。信長、秀吉、家康、光秀などが一同に布陣した珍しい場所でもあり、現在の月見御殿手前の広場が、金ヶ崎城本丸跡とみられています。
また、太平記の名所として古くから有名で、江戸時代には松尾芭蕉も訪れ「月いづこ鐘は沈るうみのそこ」の句を残しています。その句碑は江戸時代に俳人琴路等により作られ、金前寺の横にあります。

鴎ヶ崎(かもめがさき)


幕末にここに台場が作られた記録が残っています。その後明治42年の皇太子(後の大正天皇)行啓の際に展望所として整備されました。元々は海岸で、後醍醐天皇の論旨を携え亘理新左衛門が櫛川から泳ぎ着いた所と言われています。埋め立てられる前は、新左衛門が座った腰掛岩があったそうです。

自刃見込地(じじんみこみち)・金ヶ崎経塚※(かねがさききょうづか)


金崎宮本殿の背後の高台にある丸くくぼんだ場所で、経筒、和鏡、銅鋺が出土しています。尊良親王の墓に指定された場所は京都市内にあり、落城時の親王自刃の地と考えられています。明治9年に 石碑が建立されました。鳥居もありましたが、大火で焼失しています。
※「経塚」とは極楽往生を祈願するなどのために経典を埋納した塚

金ヶ崎城趾碑(かねがさきじょうしひ)


明治11年に建立された滋賀県令・籠手田安定の撰文による記念碑。 当時、敦賀市は滋賀県に含まれていました。この碑は元々金崎宮参道横の愛宕神社にありましたが、明治42年皇太子行啓の際に現在地に移設されました。

月見御殿(つきみごてん)


金ヶ崎城跡のもっとも高所に位置し、敦賀湾を 一望できます。ここから皇子たちが月見をしたと言われています。眼下には、絹掛崎が見えます。元々は絹掛崎と繋がっていましたが、幾度かのガケ崩れにより分断され、現在に至っています。

絹掛崎(きぬかけざき)


半島状の金ヶ崎から、さらに突き出た小さな岬。月見御殿から真下を見下ろすと見え、開発以前の浜の面影が唯一残る場所となっています。南北朝の戦いで落城の際、この崎の松に恒良親王が衣を掛け残して逃げたと伝わっています。
ここから月見御殿跡を見上げると、白い岩肌が垂直に切りたち、また違った印象です。

金ヶ崎古墳(かねがさきこふん)


直径約15m、古墳時代前期(4世紀ごろ) の円墳。明治42年に発見され、竪穴式 石槨から漢鏡と直刀が出土しています。
⇒「古墳」= 金ヶ崎~天筒山の尾根状にはいくつもの古墳が築かれています。金ヶ崎古墳  (古墳時代前期・約15m)以外は未調査のため時期や正確な規模は不明ですが、市内でも有数規模の大型古墳も複数見つかっています。山城築城の際にはこうした古い時代の土地改変の痕跡も廓として利用しています。

焼米出土地(やきごめしゅつどち)


城跡の尾根上にある廓跡で、この場所から炭化米が出土しました。南北朝時代の戦いや、戦国時代に織田信長との戦いで朝倉勢の兵糧庫が焼け落ちた際のものだと言われています。

城郭遺構(じょうかくいこう) 

堀切(ほりきり)

尾根を断ち切るように設けられた堀です。金ヶ崎城跡では特に大きな堀切を太平記の記述をもとに一の木戸~三の木戸と呼称しています。 

切岸(きりぎし)

斜面を削って急傾斜に改変した遺構です。

畝状竪堀 (うねじょうたてぼり)

斜面を攻めてくる敵が横移動しづらくなるよう、斜面に縦方向に畑の畝のように何本も溝を掘って作った防御施設です。焼米出土地のある平坦面の東側の斜面に集中的に掘られています。畝状竪堀は室町~戦国期に特徴的な遺構で、朝倉氏が築いた城に多用されていることが知られています。 

廓(くるわ)

兵が滞留するために設けられた平坦地です。

白い大地


金ヶ崎の北側では石灰が産出します。宝暦2年(江戸時代)に採掘が始まり、泉村(現在の金ヶ崎町周辺)の重要産業となっていました。その後、昭和初期に敦賀セメントが開業。現在もセメント生産が続けられています。

天筒山城跡(てづつやまじょうせき)


標高約170mの天筒山に築かれた山城。南北朝時代には北朝足利方の攻城の拠点。中世は朝倉氏の拠点となり、金ヶ崎城の支城として一体的に用いられていたと考えられています。1570年信長の金ヶ崎攻めでは、天筒山城を陥落させたことで金ヶ崎城に籠った敦賀郡司・朝倉景恒を降伏させています。南東側は急斜面、下には沼地(中池見湿地)と、天然の防御線が出来上がっていました。

(仮称)天筒山古墳群

明確に古墳と確認できる大型古墳が3基、その周辺にも古墳の可能性がある地形があります。未調査のため築造時期や正確な規模は不明です。この3基が40m超級で、この規模であれば、中郷古墳群の向出山1号墳(60m)、明神山1号墳(47m)、明神山3号墳(53.5m)に並んで確実に敦賀の首長墳と考えられています。

舞崎遺跡


天筒山南端にある遺跡。弥生時代中期の村の見張り台、古墳時代前期の古墳、奈良時代のお堂、平安時代の経塚、戦国時代の郭と、各時代の人々の形跡が重なり合うように見つかりました。なお、平成12年(2000年)に発掘調査されましたが、今は北陸新幹線工事のため滅失しています。

中池見湿地(なかいけみしっち)


周囲を天筒山・中山・深山(御山)に囲まれた広さ25haの湿地。絶滅危惧種90種以上を含む約4000種の生き物が確認されていること、袋状埋積谷という特異的な地形の典型例でありそこに堆積する泥炭層の厚さが世界屈指の約40mにおよぶことから、2012年ラムサール条約に登録されました。
戦国時代は天然の堀として使われたため、「堀切」という地名が湿地の中に残っています。また江戸時代から昭和40年代頃まで、全域で水田耕作されていましたが、深田で近代化が難しく耕作放棄地も増え、開発計画も浮上しほぼ全域が放棄されました。開発計画が中止された後、ほぼ全域が敦賀市に寄贈され、現在は敦賀市が所有・管理しています。また湿地保全のために、水田耕作や外来種防除活動、自然観察会などが、市民の手で行われています。

※1 袋状埋積谷(ふくろじょうまいせきこく)
元々あった谷川の流れが、断層運動や山崩れなどでできた天然ダムで遮られ、上流側に溜まった土砂で広い平坦面を持つようになった谷のこと。

※2 泥炭層(でいたんそう)
植物の遺骸がほぼ分解されずに炭化・堆積してできた地層。泥炭の中にある花粉などを調べることで、過去の植生や気候の変化を知ることができます。

山の神神社(やまのかみじんじゃ)


天筒山は、気比神宮のご祭神気比大神降臨の聖地として「手筒山(かつては天筒ではなく手筒)の嶺に霊跡を垂れ」と社家に伝わっています。天筒山を登る人を見守り続けてきました。

永厳寺(ようごんじ)

曹洞宗。若狭観音霊場第一札所。1413年に敦賀市栄新町に創建、1607年に現在地に移転。
織田信長の朝倉攻めや第2次世界大戦時の敦賀大空襲など度々戦火に遭っています。幕末1865年、敦賀市で斬首刑となった水戸烈士に同行していた15歳以下の子どもたち11人を引き取り、養育したことでも知られています。

泉のお清水(しみずのおしょうず)

永厳寺の境内と隣接する、戦国時代に発見された湧水。600年以上枯れることなく湧き出ています。

 

周辺情報

ランプ小屋


明治15年(1882年)金ヶ崎駅(現在は廃線、)に作られたレンガ造りの建物。列車の灯火に使用されるカンテラの燃料を保管する倉庫です。かつては主要な駅に一般的にありましたが、光源が電気に代わり、今では国内最古の建物になってしまいました。当時を伝える貴重な遺構として旧北陸線トンネル群などと共に、日本遺産「海を越えた鉄道~世界へつながる鉄路のキセキ~」に登録されました。

JR敦賀港線(廃線)(つるがこうせん)

JR敦賀駅から敦賀港駅(旧金ヶ崎駅)までの北陸本線貨物支線の通称。2019年4月に廃線。敦賀港駅は、明治から昭和にかけ東京発「欧亜国際連絡列車」の発着駅としてにぎわいました。1987年(昭和62年)国鉄が分割民営化されJR貨物の専用線となりましたが、輸送量は減っていきました。

金前寺

高野山真言宗。若狭観音霊場第二札所。天平8年(736)聖武天皇の勅により泰澄大師が十一面観音菩薩座像を本尊として寺を建て、天皇から賜った親筆による金光明経を金櫃に封じて陵丘に埋めさせたことにより、この山を金ヶ崎と名付け、寺名を金前寺と称したと伝えられています。同寺は消失と再建を繰り返し、現在の本堂は平成元年再建されたものです。

参照資料

「史跡金ヶ崎城跡保存活用計画書」 敦賀市教育委員会(2017)
「金ヶ崎城跡と周辺の城跡ガイド」 敦賀市教育委員会 文化振興課
「敦賀の『みどころ』ガイドブック」 観光ボランティアガイドつるが(2019)
「中池見人と自然のふれあいの里 パンフレット」

資料提供・協力

金崎宮
観光ボランティアガイドつるが
敦賀市教育委員会 文化振興課

金ヶ崎トレイルマップ

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金ヶ崎城趾駐車場まで

住所 福井県敦賀市金ケ崎町2−37

・JR敦賀駅より 徒歩30分
・JR敦賀駅から「ぐるっと敦賀周遊バス」にて「金崎宮」で下車 10分
・北陸自動車道敦賀インターチェンジより 車で10分

中池見湿地藤が丘駐車場まで

住所  福井県敦賀市余座

・JR敦賀駅より 徒歩30分
・北陸自動車道敦賀インターチェンジより 車で5分

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